
雨の日に写真を撮りながら、想ったこと
最近、また「写真を撮る」ということが楽しくなってきました。
これは、しばらく忘れかけいた感覚。
そういえば、昔、フォトグラファーになりたいと思った時期があって、写真表現学校に通っていた時期がありました。
10年以上も前の話。まだ20代で、東京で働いていたころで、約1年間、フルマニュアルで白黒銀塩写真を撮っていました。
自宅の風呂場でフィルムを現像して、休日と仕事帰りに暗室に籠り、写真を焼いていたっけ….。
写真表現学校なので、撮った写真はゼミのなかで批評があり、「何に魅かれたのか?」「何を表現したかったのか?」を徹底的にきかれました。いわゆる「綺麗に撮れた写真」は「そんなもの誰でも撮れる!思い出アルバムにでも貼っておけ!」と言われたものです。
何が表現なのか、よく分からなくなって、何度も心が折れかけました。
毎日、写真を撮り続けるのが辛かった記憶もあります。
それでも、その経験のなかで、わたしは、わたし独自の視点で、「何に魅かれているのか?」ということを、考え抜くことをし続けていました。
厳しい先生たちに、ずいぶん鍛えられましたね。いまでは感謝しかありません。
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また写真を撮り始めたのは、みんなに写真を褒められて、嬉しくなったから。
なんて、単純なわたし!笑。
東京から兵庫に越してから、しばらく「写真表現」から離れていましたが、ヨガ講師として前に出るようになって、写真が必要になって撮り出したら、まわりに褒めてもらって、すっかり気をよくしたわたし。
いわゆる「綺麗に撮れた写真」ばかりで、当時の先生たちがみたら、なんて言うでしょうか。笑。
それでも、やっぱり、ファインダーをのぞくと、わくわくして、やっぱり写真を撮るのが好きだということを思い出したようです。
不思議なもので、ここにきて、当時の記憶が蘇ってきました。

「写真を撮る」というのは、自分自身の内がわを観ることと、とてもよく似ています。
同じ景色をみても、内がわで感じていることは、みんな全然違う。
「何に魅かれているのか?」それをじっと観察し、解像度をあげていく。感じきって、受けとっていく。
そして、わたしが受けったものを、”カタチ” にして、そっと誰かに差し出していく。
それをみたとき、わたし自身もまた、「わたしが魅かれているもの」に気づきが生まれ、内なる世界の輪郭がはっきりしてくるのです。
瞑想と同じではないかと思います。
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雨の日、雨粒のひかりや、澄んだ空気に魅かれながら、ファインダーをのぞいて思ったこと。
内がわの意識を育てながら、その世界を”カタチ”にしていくことも、わたしの心が喜ぶこととして、大切に育てていこうと思います。
