わたしのヨガヒストリー
なぜヨガを伝えることになったの?
…と、よく聞かれるので、わたしのヨガヒストリーを書いてみることにしました。
改めて振り返ってみると、さまざまな出逢いや経験があって、ドラマがあって、いまのわたしがあります。
導いてくれた人たちすべてに感謝を込めて、記憶を繋ぎながら綴ってみます。
ヨガは、自分自身を探求し、その純粋な意志に沿って自己実現していくための生き方のガイドです。
ヨガはポーズをとるものというイメージが強いですが、それはヨガの一部分であり、瞑想することも、暮らしやあり方を整えることもヨガの一部なのです。
わたしのヨガヒストリーは、瞑想合宿からはじまります。
そのときはまだヨガとの繋がりを、まるで意識していませんでしたが、ここでの体験が、その後のわたしの進路に大きく影響していきます。
瞑想合宿ではじめて自分の内側と向き合ったときの衝撃といったら。
その強烈な原体験が、わたしをヨガの世界に惹き込むことになり、その奥深さにいまも魅了されつづけています。
■ 瞑想合宿に参加したわけ
当時わたしは、企業で人材開発の仕事をしていて、組織開発や、社員の育成などに携わっていました。
次世代リーダー育成の施策を考えるにあたり、目に飛び込んできたのが、瞑想を社員研修を取り入れた先進事例。米国のシリコンバレーなどのスピードの速い世界で、あえて止まって、静かに目を閉じて瞑想することが推奨されていることに、むくむくと好奇心が湧いたのです。
これは興味深い!
研修に瞑想を導入できたら面白いかも!
そう思ったわたしは、大学の研究機関に移って瞑想の研究を始めていた元同期に相談を持ちかけます。
彼はたくさんの研究データとともに、瞑想のメカニズム、なぜ世のリーダーたちが瞑想するのか、など、科学的な側面からその有用性をレクチャーしてくれました。
ますます興味が膨らむわたしに、彼がひとこと。
まずは、やってみて。
やってみなきゃ、何もわからない。体験的理解をしたひとでないと、ひとも組織も動かせないよ。
その一言で、瞑想合宿に参加することを決めたのです。
■ 瞑想合宿で経験したこと
わたしが参加したのは、10日間のヴィパッサナー瞑想です。
インドにおける最も古い瞑想法の一つで、「ものごとをありのままに」自己観察し、自己浄化を行います。10日間、1日10時間ほど、誰とも話さず目を合わせず、瞑想に没頭していきます。
3日目あたりから、わたしの内側は大荒れ。
強い痛みと悪夢のような記憶に向き合うことになり、カオスと混乱のなかに引き込まれていきました。
しかし、コースも終盤になってくると、だんだんと落ち着きを取り戻し、10日目を終えるころには、やさしさと至福に包まれていました。
太陽の光、ほほに当たる風が心地よくて。
そして、家族がいて、仲間がいて、仕事があって、美味しいごはんが食べられていて。
いつもあたり前のように支えてくれてきたものに対して、感謝の気持ちが溢れて、その奇跡に、涙がぽろぽろとこぼれました。
いままで無いものばかりに目を向けて、出来ない、努力が足りない、あれもこれもないと、勝手に苦しんでいたことに気づき、わたしは、すでに充分に満たされていることを思い出していきました。
もうひとつの大きな気づきは、「ゆるす」ということ。古い記憶と向き合うなかで、辛い出来事を引き起こした自分も相手もゆるす「慈悲の瞑想」で、わたしは楽になっていきました。
傷が完全に癒えるまでには、数年程かかりましたが、悪夢のような辛い出来事が、ありがたい経験の1つに変わり、むしろ心から感謝をするようになったのです。
■ 内なる世界への扉
このヴィパッサナー瞑想での体験は、わたしの内なる世界への、最初の扉をひらきました。
外にみえる世界は、すべて自分の内側で生み出している、ということを体験的に理解をした瞬間です。
しかし、これは序章であり、旅のはじまり。
内なる世界は、宇宙のように広大で奥深く、いまもなお、旅の途上なのです。
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これが、わたしのヨガヒストリーのはじまり。
また次のブログで、わたしがはじめて、ヨガの先生に出逢ったときのことを書いてみたいと思います。
◼︎次のストーリーに続く…